人間学誌『致知』 /2000年12月 致知出版株式会社発行
 
 

久徳重盛 きゅうとく・しげもり

大正13年愛知県生まれ。
昭和24年名古屋大学医学部卒業。同大小児科に勤務。
35年喘息研究を開始。小児科に喘息治療センターを開設。
46年愛知医科大学教授。
 
54年喘息征服の診療に専念するために退職して久徳クリニツクを開設。
著書にベストセラーとなった『母 原病』『愛欠症候群』『学校ぎらい』などがある。
国際医療福祉大学教授
 


小田晋 おだ・すすむ 

昭和8年大阪府生まれ。
岡山大学医学部卒業後、東京医科歯科大学大学院修了。
矯正施設に勤務後、39年に同大学犯罪心理学研究室助手となり、
犯罪精神医学者の道を歩む。52年筑波大学教授となり、平成9年から国際医療福祉大学教授。筑波大学名誉教授。医学博士。
 
著書に『日本の狂気誌』『権力者の心理学』『大人社会のいじめを心理分析しよう』などがある。
 


 

 
トップ対談  小田晋×久徳重盛    

◎特集 ◎父性と母性

 
その少年は母1人子1人であった。
学校の授業参観で母親は、「うちの子は親思いで、こ飯も食べずに私の帰りを待っているんですよ。本当に親孝行なんです」と話していた。
ところが少年が中2の夏休み、その母親が出奔した。少年は来る日も来る日も母の帰りを待った。
そしてある日、これでもう母は帰ってこないと自分なりに判断した時、少年は箪笥から母の物すべてを取り出し、風呂敷に包んで浜辺に行き、燃やした。以来、少年から一切の意欲的なものが消えていった。そして、虚ろな心を暴力などで紛らわすようになった―。
子どもにとって母親というものがいかに大事な存在であるかを、この実話は物語っている。
母性の欠如は子どもの人格をはなはだしく損なっていくのである。
いま、母性の喪失がいわれている。それに付随する父性の欠落も同様である。 最近頻発する異常な事件は、その反映と言えよう。
一つの犯罪が起こる背後には、何万という同質の予備軍が控えているといわれる。
これまで日本人の間に暗黙のうちに伝承されてきた父性母性の原理を、 私たちははっきりと訴えていかなければならない時にきている。

なぜ十代はきれるのか。
なぜ父権は失墜し、母性は失われたのか。
そして、この危機を乗り切るには?

この混乱はどこから来たのか
 
少年たちによる犯罪が日本全土を覆っている。
エジプトのミイラの棺に記されているように、いつの時代も若者は大人にとって未熟な存在であった。
だが、現代の犯罪の顕れ方は異常としかいえない。 このような少年たちを育んだ土壌は何か。解決の手立てはあるのか。
喘息治療では日本一の名医と謳われ、 ベストセラーとなった『母原病』の著書でも知られる久徳先生と精神科の臨床医でもある小田先生に語り合ってもらう。
 
 


 

 子供を騙すのがうまかった
小田 先生はいまも外来を診られるんですか。
久徳 1週間に3日だけ診ます。息子が二人いるんですが、5年ぐらい前から、僕と同じ小児科をやりたいといって手伝ってくれるようになりましたので、あとは息子たちに任せてしまって、休みの日は畑へ出て野良仕事をしています。
小田 それは羨ましいですね。息子さんが二人ともお父様と同じ小児科医になって、病院を手伝ってくれるなんて、ほかの医者が聞いたら羨ましがりますよ。
久徳 仲間の医者からは羨望の的です(笑)。
小田 どこかが欠けてしまうから、なかなかそういう具合にはいかないのですね。せっかく医者になってくれても、父親とは専門が違う。一緒でもよその病院へ行ってしまう。久徳先生の場合は息子さんたちがお父様を尊敬しているのだと思います。
久徳 僕のやっている医学は面白いから、大学の医局にいるより親父と一緒に働いたほうがいいというんですね。ただ、一緒にやるからには親父だとは思わず、教授だと思って勉強しろ、と。
小田 そういうことがいえる父親はなかなかおりません。そういう台詞は子どもに尊敬されていないと出てこない。先生は子育てに成功されたといっていいと思います。
久徳 毎日の積み重ねの中で、なんとなく医者になりたいように誘導していくんです。子どもは自分の意志で医者になったんだと思っているかもしれないけれど、こちらからいえば、うまくレールに乗ってくれたということなんです。
小田 なるほど。しかし、父親の診療ぶりに感服するというようなことがないと、つまり父親に対する尊敬ですね、それがないと、思ったようにはレールに乗ってきてくれないものじゃないでしょうか。
久徳 僕は子どもを騙すのがうまかったから(笑)。従来の小児科学は身体医学中心できましたが、そういう知識があるだけではうまく子どもを扱うことができないんです。
小田 子育てについては乳児期、幼児期、少年期とあって、それぞれどのようにしたらいいのか、のちほど先生にお伺いしたいんですが、その前に最近多発する少年犯罪に触れておかなければならないと思います。
1990年に入ってから、少年犯罪に変化が現れるようになってきました。その先駆けになったのが神戸の酒鬼薔薇事件です。そのころは15歳の事件が続いて、もう1つは栃木県黒磯で起きた中学校の女性教師殺害事件です。そして去年から今年にかけて、17歳の事件が次々と起きました。


 学校教育の問題ではない

小田 神戸の事件のときの社会の反応、とくに教育界の反応は、若者たちの心の問題、犯罪が悪化するという考えではなかった。神戸の事件のあと現地に殺到したジャーナリストたち、とくに進歩的大新聞系と新左翼崩れのルポライターは、あの学校は公立だったのに受験勉強に熱心だったとか、近くの道路が東大通りといわれている、ということを大きく取り上げました。 それに便乗して宮台真司東京都立大学助教授のような社会学者は、子どもたちが学校化されている。学校に飼い馴らされているから、それがきっかけでこういうことが起きた。あの地域はコンビニもディスコもない清潔な地域で、それで子どもが欲求不満になって事件を起こしたというわけです。両方とも犯罪社会学のすべての常識に反する意見なんですが、それが大きく報道されて、一番の問題は教育だということになってしまった。 さっそく小杉文部大臣(当時)が文教委員会で取り上げました。それに対して、栗本慎一郎氏のように、これは文教委員会の問題ではなく、厚生委員会か法務委員会で取り上げる問題だ、と正論を唱える人もいたんですが、文教委員会で取り上げたことによって、教育問題にしてしまったわけです。
久徳 そのあとで黒磯の事件が起こりましたね。
小田 ええ、これも学校ヘナイフの持ち込みを認めるかどうかという問題が、所持品検査をするかどうかということになって、人権問題にすり替えられてしまいました。
この事件の1年前から栃木県教育委員会では教壇を取り外させていたんですね。それによって教師を甘く見る、自分より下に見るという雰囲気をつくってしまったことも、こういう事件が起きた一因ではないでしょうか。学校の先生たちは教室の秩序を維持する能力を失ってしまって、授業中でもポケベルが鳴る、立って歩いたり私語を交わすということで、授業が成立しない。
自由保育といって、幼稚園・保育園で子どもたちにしつけをしない。団体行動をするように教えない。みんながお遊戯をしているときに、寝転んでいる子どもがいても、それはその子の個性なんだから、絶対に注意をしてはいけないという教育をしていますが、小学校の低学年では、そういう自由教育をしている保育園から何パーセントの児童が来ると、学級崩壊が起きるかと正確に予想できるという発表が日教組の教研集会で出ています。
久徳 ほほう。
小田 それなのに学級崩壊は自由保育のせいではない、家庭に原因があるということにしてしまおうという「教育評論家」の声ばかりが高いのです。ところが、家庭においては、精神分析の立場からいうと、子どもは父親との同一化に基づいて超自我を確立していかなくてはならないんですが、そういうことはなしにして、子どもの個性を守ることが大事だという。
個性を伸ばすためには、バイタリティーを与えるようなことをしなければならないはずですが、それをすると暴力だということになる。つまり学校も家庭も崩壊させるようなことをいって、日本社会のタガを外そうとしている人たちがいる。そういうことが少年犯罪の質的変化をもたらしているんだと私は思います。

 
「母原病」が子どもの病気の60パーセント

久徳 小児科医の立場からいうと昭和30年から35年ごろにかけて、小児麻痺とか日本脳炎という昔の子どもの病気というのが非常に少なくなりました。それで将来の日本の子どもは健全に育つぞと思ったんですが、代わりに小児の心身症とか親子関係の歪みというような、それまでにはなかったような現象が出てきました。
私の専門の喘息を例にとっても、子どもに投薬しても、生活スタイルを改善するように指導しても病気が快方に向かわないことが多くなり始めました。そういう患者を何人も診ていくうちに、これは身体的な原因だけでなく、心の問題が絡んだ病気ではないかと気づくようになりました。しかも多くの場合、付き添いとして一緒に来る家族、とくにお母さんとの関係が強いのではないかと考えつくようになったのです。
小田 原因は母親、つまり「母原病」である、と。
久徳 はい。喘息児の付き添いで来るお母さんには、大まかに分けて二つのタイプがあることに気がつきました。一つは過保護型の母親で、少し寒いからといっては厚着をさせ、子どもが少し鼻水を出しているからといっては入浴をやめさせるといったタイプです。もう一つはガミガミ型の母親で、ちょっとした子どものいたずらでも激しく叱りつけ、おとなしくせよ、静かにせよといって子どもを萎縮させてしまうタイプです。
生まれてからずっとこうした母親や家族と接していると、子どもは性格ばかりでなく、体質までも決定されてしまうのでしょう。
小田 お母さんを変えないと子どもが治らない。
久徳 そうです。つまり、子どもの病気の原因が子ども白身ではなく、お母さんの意識なり考え方なり、子どもとの接し方にあるのですから。
これまでの私の臨床経験からいって、現代の子どもの異常の60パーセントはその母親の育児が原因となった病気や異常、つまり母原病で、伝染病などが原因のものは40パーセントにすぎません。
小田 子どもが病気になったときには、お母さんは養育環境、とくに親が原因ではないかと疑ってみる必要がありますね。
久徳 ええ、母原病かどうか、11項目のチェック事項を考えました。
①子どもはあまり好きではない。それほどかわいいとは思わない。
②子どもは少ない方がよい。子どもがいることがそんなに幸せとは感じない。
③育児について不安が多い。
④育児に手がかからないようにしたい。だから、おとなしい子がよい。便利な育児がいいと思っている。
⑤育児より外で働く方が楽しい。
⑥しょっちゅうガミガミいい、カッとなって叱ることが多い。
⑦子どもを褒めたり、おだてたりすることがあまりない。
⑧「子どものことだから、まあいいじゃないか」とつい過保護、溺愛にしがちである。
⑨ゼロ歳から3歳児のころ、子どもを親から離して他人に預けてもあまり気にならない。
⑩子どもを生き生き楽しい気持ちにしてやることが少ない。
⑪たくましい子に育つとは思えない。
思い当たることが多いほど、子どもは母原病になりやすいといえます。

集団生活をさせるのがいい
久徳 さらに疑問に思い始めたことは、いままでの親はどうして子育てが上手だったのかということです。そして、文明が進むことによって、人間は変になるのではないかと考えたわけです。
小田 ははあ。
久徳  ほかの動物は餌を与えさえすれば、普通の大人になります。ところが、1920年ごろでしたか、インドで狼に育てられた人間の子がおりましたが、人間だけが狼に育てられれば狼らしく育ってしまう。どうしてだろう。昔は生まれた子はうまく育ったんだが、経済が成長し文明国になったことによって、子どもの育つ環境が狂ってきたのではないか。
いまは何か問題が起きると、親が悪いのか学校が悪いのかといいますが、実は構造的な問題なんだということがわかった。「問題の子ども」といいますが、経済が成長して一番最初に壊れたのは大人のほうなんです。まず昭和30年から35年にかけて少子化現象が起きました。このときは政府も対策を間違って、「少なく生んで上手に育てる」ということをいいました。しかし、人間という動物は子どもが少ないとうまく育たないんです。
同時に経済が成長していますから、親の育児本能が壊れてきますね。集団本能も壊れて核家族になる。「問題の大人」が出たわけなんですが、当時のみんなの受け取り方は、価値観が多様化しているのだから、どんなコースを歩こうと勝手だということでした。働きたくなければ働かなくていい。結婚しても嫌になったら離婚すればいい。子どもを生まなくてもいいし、生んでも育てなくたっていい。
私は価値観の多様化時代だからそれでいいんだ、ということが定着してしまったことが一番の失敗だったと思います。生んだ子どもをしっかりと育てるというのは、種族維持本能ですね。これが壊れたし、集団本能も壊れて大家族が核家族になり、近所付き合いをしなくなった。個体維持本能も壊れて、大人になっても働かなくなった。どれもこれも価値観の多様化ということで見逃してしまっているうちに時代が過ぎていったわけです。

15歳になれば大人
小田  人問としての基礎ができるのは、ゼロ歳から6歳ぐらいの間ですね。
久徳  そうです。それから6歳から10歳、15歳にかけては大人の基礎をつくる年齢です。そのころまでに声変わりはするし、月経も現れますから、15歳になれば大人なんです。江戸時代でも15歳で元服したし、多分縄文時代でも15歳は大人だったと思います。ところが日本では20歳が成人ということにしてしまった。これは親子にとって非常にマイナスになったと思います。
15ならもう大人だという気持ちで育てれば、子どももそういう自覚を持つと思いますから、それほどひどい育児崩壊は起こらなかったでしょう。昭和30年以降の日本の政策について、僕はあるところに「日本の国は日本列島を実験台にして、日本民族を実験動物にして、非常に高度で急速な経済発展を遂げると、日本人がどれだけ壊れるかを実験しているようなものだ」と書いたことがあるんですが、日本の経済成長は本当にそういう実験をしたようなものだという思いがします。
小田  まったくそのとおりですね。

 
事件の前に引きこもり生活がある

久徳 経済成長して遊びの文化が壊れたことも影響が大きいと思います。メンコにせよビー玉にせよ取っ組み合いの喧嘩にせよ、子どもは世界中同じような遊びをしているんですが、日本では生まれたばかりの赤ちゃんの子守りはテレビにさせるようになった。3歳ぐらいになると、怪獣だとかプラモデルを欲しがるようになる。
本来なら3歳ごろまでは親や周囲の大人を見て、ままごとを覚える。お手伝いすることも覚える。それが全部なくなってしまいました。その上にテレビゲームの影響で、「やっっけろ」「殺せ」なんていうことをごく普通だと思うわけです。母親は自分が子育てをしていると考えていると思いますが、子どもを見るとお母さんの影は薄いんですね。
小田 昭和40年代まではこんなになるとは思いませんでした。元服が20歳になったといっても、いまは元服しても「引きこもり無職男」というのがいるんですね。あるいは「自己愛パラサイト」といって、いつまでも親元に寄食していて結婚年齢が30歳ぐらいまで延びてしまっている。
宮崎勤事件、京都の「てるくはのる」事件、新潟の少女誘拐監禁事件も、学校を中退したあと、引きこもり生活に入って、その中で極めて破壊的な情報を与えるメディアとの関係が、彼らにとっては最大の疑似体験になっていくわけです。一連の17歳の事件も、その前に長短ありますが、いずれも引きこもり生活があるんです。
それを久徳先生がやっておられるようなプロジェクトに早期に組み込んでやれば、かなり救えると思うのに、そういう子どもは管理教育・受験教育に巻き込まれていないから、逆に見込みがある、などというジャーナリズムがあるんです。
久徳 一番の原点は集団生活がないということだと思うんですね。私の病院には16の病室がありますが、それを一軒の家庭と見立てて、登校拒否の子も喘息の子も、引きこもりで働かない大人も一緒に生活させる。朝6時に起きてラジオ体操をしたあと、冷たい水で身体を拭く。それからきょうも一日頑張るぞというのをやらせる。軽い子だと1週間ぐらいで学校へ行きたくなります。
小田 筑波大学の体育学系の飯田稔教授が、2週間ぐらいキャンプ生活をやらせようという試みをなさっています。子どもたちを岩手県と秋田県の県境あたりのキャンプ場に連れて行って、沢登りや山登りをやらせる。極めつけはソロ活動といって、子どもたち一人ひとりにテントと飯盒を与えて、火を点けるところから自分でやらせる。火が点けられなければ生米をかじっていなければならない。もちろんカウンセラーの大学院生が陰ながら見てはいるんですが、周辺は熊が出るかもしれないような所です。そこへ一人で放り出す。
ソロ活動以外のときは5人1組でテント生活をするんですが、その中に不登校児が1人だけだと非常に効果がある。2人だと効果が減って、3人だとほとんど効果が上がらない。久徳先生がおっしゃるように、集団の力が大事だということがよくわかります。

集団生活をさせるのが一番いい 
久徳 地域社会の連帯とか大家族の連帯がない中で、人間とは何かということを学ばせないままにきてしまっているわけですから、集団生活をさせるのが一番いいんです。入院ということだと2か月ぐらいで帰さなければならないんですが、それで改善しない場合、1年ぐらい預かると、立ち直る子どもが半分以上いるんですね。
そこで8年ほど前に人間形成塾という塾をつくって、白炊生活をさせることにしたんです。風呂もガスで沸かせるようにはなっていますが、わざと釜を作って、自分たちで薪を割って焚かないと入れない。入ったばかりの子どもは何をやったらいいのかわからないものだから、立ち竦んでいるだけですが、ほかの子どもの手伝いをするうちに、薪も割れるようになるし、自炊もできるようになるんです。
最初はお客さんが来ても「いらっしゃい」がいえない。いえるようになるまでに2か月はかかりますね。「いらっしゃい」がいえても、「さようなら」がいえない。それもまた教えなければいけません。炊事・洗濯・掃除ができていないとケースワーカーが見に行ったときに叱られるものですから、きょう来るという日は一所懸命に掃除をしたり、洗濯をしたりしている。それをやっているうちに、大体7割ぐらいの子どもが社会復帰できるようになります。
小田 やりやすい子どもの年齢ってあるんでしょうね。
久徳 15歳ぐらいまでの子どもならやりやすいですね。子どもたちの自主性に任せて、学校へ行きたくないのなら行かなくてもいいというのは間違いで、かといって強制するのもよくない。行く気にさせる指導をすればよいのです。これも無理に説得するのではなくて、集団生活をさせると自然に行く気になるんです。
小田 少年法改正反対論者は少年犯罪は増えていないといっていますが、2、3年前から少年非行「第4の波」となってどんどん増えています。精神医学的にいうと、犯罪を犯す子どもたちには境界性人格障害とか白己愛障害という例が多いのです。
境界性人格障害というのは、自分がどういう人間になるのかがわからなくて不安定になってしまう。要するに親が自分の生き方に自信がない。久徳先生のご家庭のように、子どもが親を尊敬して喜んで跡を継ぐという家庭をみんなが羨ましがるという社会になってしまっているわけです。親がモデルになれない。学校の先生でもモデルになれればいいんですが、学校の先生もなれない。子どもはどういうふうに生きていいかわからないものだから、そこで混乱が起きている。
自己愛障害というのは、他人を愛することをしないのです。自分は愛してもらいたいし、目立ちたい。しかし、他人を愛したり、褒めたりすることを知らないんですね。先生が先程おっしゃったような、挨拶のできない子どもというのはこういう障害の持ち主で、社会性がないんです。
 
人のためになるという経験がない
久徳 先程小田先生がおっしゃったように、親が同一化の対象になっていないということなんでしょうね。
小田 小さいときから子守りをさせたり、手伝いをさせないからなんですね。人のために何かすることが楽しいという体験をさせていないからなんです。人から何かしてもらうことしか知らずに育って、シニカルで悪質なメディアを通してだけ社会とつながっていますから、社会性が欠けている。
豊かになるとともに暇を持て余す人がたくさん出てきましたが、引きこもり状態の少年というのは暇の極致ですから、いろんなことを考えるんです。
久徳 だから僕はつくづく思うんですが、三つ子の魂百までといわれるように、子どもが3歳までの間に親が成熟することが肝心なんです。成熟した親というのは、褒めておだててやる気にさせることができる。
3歳ぐらいになると第1反抗期で「嫌」ということをいうようになります。そのときに「嫌なことがあってよかったね。頑張ると立派な大人になれるよ」といってやると、3歳の子どもでも「頑張る」というんです。
嫌でも努力することがわかって学校へ行くようになると、学校や勉強が嫌でも、頑張ってお母さんに褒められるのは楽しいということになる。それをやっていくうちに、15歳ごろまでには、嫌なことでも挑戦するのが楽しい。嫌だった学校も勉強も楽しいというようになっていくんです。それが成熟していくということなんですが、親が成熟していない。
小田 乳児期には全面的に愛でしょうね。全面的な愛を注いで、基礎的な安心感を子どもに植え付けなければいけない。それが一生を通じて人間が難局に耐えていく力になるのです。幼児期にはしつけ、少年期には教え、そして思春期には自分で考えさせるものなんですね。それから法と宗教に直面する。これは人類共通のプログラムなんですが、いまは逆転してしまっているんですね。
少年期には道徳教育を教えないし、20歳までは処罰しないということで、法と宗教の存在に直面させない。名古屋の5千万円恐喝事件でも、西鉄バスジャック事件でも刑事罰にならなかったというように、法の存在に直面させないものですから、その瞬間に子どもの遵法意志は崩壊してしまうんです。私が鑑定した例に限っても、少年たちは自分は少年だから医療少年院へ送られるだろう。送検されたとしても懲役5年から10年以下だろうと、ちゃんと読んでいるんですよ。
 
便利な子どもがいい
久徳 経済が成長して炊事とか洗濯とか便利になるのはいいんですが、人間は愚かな動物ですから、人間関係も便利になりたいと思うんです。便利な亭主がいい、便利な家内がいい、便利な子どもがいいというように。便利な子どもというのは、手がかからない子どもがいいということですね。これはそう思っている親は気が付いていないんですが、子どもに対する消極的な敵意です。いつもいつも嫌だ嫌だと思いながら子育てをしていることになる。
小田 なるほど、そうですね。
久徳 すると親として成熟しないんです。動物の場合は親が成熟していないと子どもは死んでしまうんですが、人間の場合は知能が発達していますから、ハウツー育児というものがあるでしょう。昔は育児書などというものはありませんでしたが、どうしたらいいのかわからない親が出てきたものだから、育児書が売れるようになった。当然、ハウツーしか書かれていませんから、子どもに対してああしろこうしろと命令するようになるんですね。
小田 同時に、本来ならしつけの段階から参加しなければいけない父性の権威の失墜という問題もありましてね。ライオンの父親は働きませんが、いざというときはあのたてがみが必要になるんですが、いまの日本の社会構造の中では男の肉体的な力はあまり意味を持ちません。
それに戦後は権威というべきもの、畏敬すべきものを引きずりおろすのが民主主義だという考えがありました。最初にやられたのが大学の教授でしたが、それから学校の先生、父親というように次々と引きずりおろされてしまった。
久徳 僕は高度成長期に企業戦士なんていったことが間違いだったと思うんですよ。あの当時は、家庭や家族のことを顧みるような人間は、ろくでもないサラリーマンだといわれた。じゃあ、仕事ができれば一人前かというと、企業内ではいざ知らず、一所懸命に働くだけでは成熟した夫・父親になるための社会訓練にはなっていないわけです。
小田 私は女性の社会進出に反対というわけではまったくありませんが、最近のお母さんたちを見ていると、みんなキャリアウーマンを目指しているんですね。それにつれて母親の中で流れる時間が変わって早くなった。子どもはちょこまかしていますが、実際は子どもの中で流れる時間は大人よりずっとゆっくりしているんです。それがお母さんにはイライラするから、「早く早く」「勉強勉強」としかいわない。お母さんは子どもが思春期に入ると、「飯、金、うるせえしかいわない」というけれども、そうやって急き立てるばかりで、おまけに幼児期にスキンシップが不足していれば、そうなるのは当たり前なんです。

草の根運動に期待する
久徳 人間形成からすると、人間を未熟にする社会が文明国ですから、いまの日本の現状はしょうがないと僕は考えているんですが、それでも子どもは育てていかなければならないわけで、親はいかに構造的に育児が難しいか、欠点があるかということをきちんと知らなければいけません。
小田 非行の問題でいうと、大人たちが悪いことをしているうちは、何をしても無駄だといっている人たちがいますが、アメリカを見ると、クリントン大統領には不倫疑惑が起きるというような体たらくではありましたが、少年犯罪は40~50パーセント減っているんです。それはニューヨーク市長やニューヨーク州知事が、自分たちが子どもたちにとって超自我の役割を担おうと考え、法の存在をはっきりと示すという方針をとったおかげなのです。
久徳 いまのような乱れは政治が悪い、例えば汚職事件を見よという人がおりますが、政治家の汚職なんて昔からあったもので、われわれはあまり見なかった。ところがいまはテレビの影響が大き過ぎます。
小田 たしかに政治家がどうこうというのはあまり関係がないんですね。政治家と同一化したいと思っている日本人はおりませんし、アメリカでもいない。それより先生を尊敬しなくてもいいというような人をテレビに出しちゃいけないんです。
敬うことを否定するような人がテレビに出る、また出す人がいるという現状では、僕は非常に悲観的にならざるを得ない。久徳先生がおっしゃるように、社会が崩壊していくのは文明と大きな関係がありますから、日本は悲観的な方向にどんどん進んでいくしかないだろう。
しかし、少なくともそれを助長するようなことはやるべきではないのに、政府はやってしまっているということが重大なんです。つまり、女性の社会進出を進めることと母親になることを忘れることは決して同義ではないのに、忘れてもいいというゴーサインを出してしまっています。
父親が民主的であることは大事なことかもしれないけれど、従来の父親的であるということには赤信号を出しています。また学校の先生を権威の座から引きずりおろすのが民主教育であり、人権教育であるというようなことをやっています。せめてこういうことをやめてもらえないだろうかと思いますね。
マスコミも学校の先生を尊敬しなくていいというような発言をする人を登場させちゃいけないんです。
久徳 子どもから見て、尊敬できる父親であり、母親であれば、子どもは宝のような子どもになるんです。
僕はいま、ゼロ歳から6歳児を持つお母さんお父さんと、保育園や幼稚園の先生方を対象に「子育て勉強会」を無料で開催しています。大人がしっかりすれば子どもは変わりますからね。
だから僕が期待しているのは、草の根運動で、地域社会の連帯をしっかりとつくり、子育てをするチームをそれぞれの地域ごとにつくって、向こう三軒両隣で井戸端会議をやりながらおしゃべりをしていくという動きが出てきてほしいと願いますね。