ぜんそくジャーナル

 

142号ジャーナル

【手記】Y君のお母さん 

    
長男のYは、今でこそ腕白盛りの元気溢れんばかりの子どもでともすれば親を手こずらせるほどですが、久徳先生に出会う以前の2歳前後から1年間毎月喘息で入院生活を送り、親も子もいつ起こすかわからない喘息発作の不安をいつも抱いて生活をしていました。
Yが初めて入院したのは平成4年3月、1歳四4ヶ月の時でした。病名は仮性グループと冬期下痢症でした。その後、10月はじめに急性胃腸炎で二度目の入院をしました。そして10月末、11月末、12月末から正月にかけて三たび続けて喘息性気管支炎でその病院に入院し、点滴等の治療を受けました。
医師の話では、小学生ぐらいになって体力が付いてきたら治るということでしたが、なんの保証もなく、目の前で苦しむ幼いわが子を見て非常に不憫に思いました。
 
退院してまもなく平成5年1月、私たちは主人の仕事の都合で、茨城県T市に半年間の予定で転居をしました。それまでは主人の両親と同じ敷地内に住んでいたので、Yの入院の際でもいろいろと助けてもらうことができて心強かったのですが、T市ではそういう訳にはいかないことを覚悟しつつ、しかしひょっとしたら転地することが良い結果を生むかもしれない、とほんの少し期待も持ちました。
ところが、相変わらず発作は毎月起きたのです。Yの発作はいつも突然やってきて、1、2時間のうちにひどい発作に移行します。毎回、「ぜいぜい」と始まった軽い段階で病院に連れていき、吸入を受けた後帰るように指示を受けるのですが、帰宅するころには必ずひどい発作になっていてまた病院にとんぼ帰りするのでした。
 
病院の医師は最初に行ったときはきまっていったん家に帰るように言われます。しかし親としては、必ず1時間もしないうちに戻ってこなければいけないのだから、無駄に時間を費やしてYの発作をひどくするだけなので、症状の軽いうちに少しでも早く処置して治してほしいのに、と腹立たしく、無念に思いました。けれども、なす術もなく病院と家を往復するということを毎回繰り返していました。(今になれば、この親の悲観的な気持ちがいけなかったと思います。)
Yは最初は4日くらいで退院できたのですが、入院回数が重なる毎に入院日数が増えていきました。Yも私たちももう入院生活のイロハは大体わかってしまい、Yも次にはどんな怖いことをされるか予測して、かえってそれがよくないのでした。点滴の時に、親からひき離されて、タオルで体をぐるぐる巻きにされて、看護婦さんに上から押さえつけられて、Yは怯えきってわあわあ泣きました。また、痰を機械で吸い取られるときもたいへんつらそうに泣きました。親として非常にかわいそうで、どうしてこんな小さな子供がこんなかわいそうな目に遭わなければならないのだろう、と胸を傷めたものです。
 
こんなにしょっちゅう喘息で入院してるのだから、これ以上病気になったらかわいそう、と受けられる予防接種は早い段階ですべて受けさせました。また、本来は、薄着にさせていたのに、風邪をひいたらいけないからと私たちがすごく神経質になって、いつのまにか厚着にしていました。1回でも「コホン」と咳をしていたら、私たちはドキッとして「だいじょうぶ?」と反応していました。
Yが生まれた時から、母親である私は、できるだけ心身共に逞しく何にでもガッツをもって取り組む子供になってほしいと願っていましたし、そのように育てようと思っていました。ところが、入退院を繰り返すうちにいつのまにか家族中でとても過保護にしていしまっていたのでした。
 
喘息が治るのならお金は惜しまぬ心情で、布団は全部抗アレルギーの布団に換え、カルシウム剤を飲ませるとよいと聞いてそれも購入しました。また、旅行先の宿に着いて発作を起こし急遽帰宅して入院となった際は、病院の先生に勧められて吸入器を買いました。そしてそれ以後は、旅行には車に布団と吸入器を積んで、旅館ではなくホテルに泊まりました。今から思えばこれらすべては殆ど無意味でした。
 
同年8月、11回目の入院の折、病室で読んでいた母親向け雑誌に久徳重盛先生の記事があり、名古屋のみならず東京高田馬場にも分院があることを知りました。
丁度私は第二子の妊娠6ヵ月で入院時の付添いも辛くなりつつあり、何より出産前後のことが心配でしたので、なんとかYの病気を良くしたいと思っていました。高田馬場なら、片道2時間半だけれども通えないことはないと重い、久徳先生にすがる気持ちで受診しました。
 
それまで他の医者で随分嫌な思いもし、また診察時間は数分で対症療法のみの現代医学と医師に不信感も持ち始めていた私たち夫婦に、久徳重和先生は時間を惜しまず、じっくりお話をしてくださいました。
息子と私たちが喘息に過敏になっていて、それが喘息を起こす引き金になって悪循環しているということ、たとえ喘息が起きても、不安な気持ちは胸におさめて明るい表情で楽しく努めること等、多岐にわたってご指導を受け、何より先生は親の不安を取り除いてくださいました。
 
そしてそれ以降、私たちは朝晩の冷水浴等先生に教えて頂いたとおりに生活することにし、診察時のテープを繰り返し聞き、「喘息征服友の会会報」をじっくり読みました。
久徳先生に診ていただくようになって以降、結局息子が発作をおこしたのは、9月末に引っ越す時の1回のみで、その時も先生が「引っ越しで親が慌ただしくしているので、子が動揺しているから、どんと構えなさい。そして楽しく過ごさせてあげて。」といわれ、そのお言葉に従ったらすぐに治りました。
確かに、息子は今でもそうですが、生まれた時から人一倍感受性の鋭い子でした。
 
若し久徳先生に診ていただいていなかったら、今の元気な姿はなかっただろうと思うと、本当にぞとします。予測もつかない発作におびえていた毎日。幼稚園にあがることすら無理のような状態でした。先生にめぐり合えていなければ、今頃は病室で点滴漬けだったかもしれません。いや、おそらくきっとそうでしょう。重和先生の心からのご指導に、子供を含めて家族揃って全幅の信頼を寄せることができた。医師とそういう関係を持つことができたことが息子の全治に繋がったのだと思います。先生への感謝の念と、信頼の気持ちは、一生忘れられません。本当にありがとうございました。いつまでも今のような患者の声を聞いてくださる先生でいてください。そして、現在喘息児を抱えて途方に暮れている親御さんがいらっしゃったら、悲嘆に暮れずにまず、久徳先生の仰るとおりに励まれて下さい。少しでも多くのお子様が息子のように元気になってくれるようにお祈りいたします。