ぜんそくジャーナル

 

124号ジャーナル

【手記】「人生いつも前向きに」 愛知県Kさん63歳

                                            
喘息歴は14年、皆様と同じ様に根治を目指し、私なりの努力を続け、只今前進中の63才の主婦でございます。2人の息子もそれぞれに家庭を持ち、細々乍ら自営の襖材料を商う主人との2人暮らしで、私は事務兼電話番をして、1日中殆ど夕方の買物以外は外出できない生活を長年続けて居ります。14年の喘息歴と申しましてもその中の2年間は、久徳先生のセミナーに出席させて頂いている事だけで、発作も軽く乗り切ることが出来ていました。久徳クリニックで直接診察して頂く様になりましてからもうすぐ1年になります。その1年間に、大きな発作で落ち込み、挫折し、院長先生諸先生の、時にはきびしい御指導と看護婦さん方に励まして頂き、懸命に這い上がり、しかし昨年の暮、ぎりぎり迄外来患者、最後の居残りだったと思います。只1人点滴を受けていましたのがずい分以前の事の様に思えます。今年の念頭に自分に誓いました。「今年こそは新しいお友達を作る機会を積極的に見つけて、もともとその要素が大いに有る私ですもの、徹底的にガラッ八婆さんに成って、明るかった子供の頃の私を取り戻す努力をしよう。」此の様に前向きな心の姿勢を先生方に御指導して戴いた事を感謝致しております。古風な、しきたりの商店で20年近くも修行奉公を重ねて、一見、石部金吉風な主人と、「南京袋の様な娘ネ」(がさがさ織りのざっくりした感じの事と思いますが)と、よく養父母から、云われていた私が、結婚して40数年、まじめな主人で養父母の面倒を最後迄よくみてくれました。有難く思っております。
 
本筋の喘息歴はと申しますと、長男の結婚式を数日後にひかえて、少々風邪気味なので、近くの医院で調合して戴いた薬を飲んでから数時間後の事です。空気飢餓と云うのだそうですが、只々空気が吸いたくて、寒中ですのに窓を開け柱に寄りかかり、生まれて初めての症状に死んでしまうのではと思う程の呼吸困難になりましたが、身内にも、その様な人が居ませんので喘息とも知らず、薬が強過ぎた位に思い、なんとか式を終えることが出来、暫くは忘れておりました。それから4年後、次男の結婚式の今度は翌日、以前よりもひどい発作を起こし、入院する羽目になり喘息という難病にかかって持病となり、もうどうしようもないと思いました。それからは、軽い発作でも、恐怖感におそわれてあわてふためき、あげく大発作と成り、特に秋には毎年の様に入退院を繰り返す数年が過ぎました。安静、只安静の入院生活にめいるばかりですのと、電話番の私が居ないと、どうしようもない商売に困り果てている主人に申し訳なく、無理を承知で退院し、又病院に逆戻りの繰り返しでした。忘れもしません4年前の11月、喘息セミナーの事を記事で知りまして退院後まだ3日目でしたが、どうしても出席してみたく、主人に付き添ってもらって。初めてセミナーに出席する事が出来ました。院長先生のよく理解できる御講義に熱中し、約2年間出来る限り出席しました。一番嬉しく思いましたのは、やはり快くなれるという事と、何回も出席させていただいているうちに、恐怖感がだんだん、うすらいでいった事です。自分の喘息を手さぐり乍ら分析する事もすこしずつ覚えました。一生のうちで一番大切な幼児期に、父を亡くし、養女に出され、又他家へ預けられた事なども影響して居るのかも知れない、など考えもしました。セミナーに出席させて戴いていた2年間。軽い発作で過ごす事が出来たのもとても不思議で喘息のしくみの複雑さが分からなくなったのも本当です。そして昨年の5月。1人で行く事の出来る軽い発作を機に初めて久徳クリニックで診察をして頂き、今迄の病院を色々の様子の違いに戸惑いました。
幼児期の事。現在の生活の様子等こまかく聞いて戴き、久徳先生に診察して戴く機会にめぐり逢えた自分を本当に幸せと思いました。少し体調をくずしていた6月の事です。実の母の一周忌法要前夜、思いがけないひどい発作を起こして、2日間机に伏せて夜を明かしました。その頃は、喘息を罪悪の様に思われていると感じ、主人にも申し訳なくて頼むことも出来ず、主人にも申し訳なくて頼む事も出来ず、覚えた限りの呼吸法で苦しんでいました。見かねた主人にやっと連れて行ってもらい点滴を受け乍らの排タン法も覚える事が出来ました。こんなに楽になれるのに中々病院へ連れて来てもらえない事を恨めしく思ったり、養女のことを知った小学5年生の頃、その事を1人で胸に収めてしまってから、素直に甘える事が出来なくなった事など、後日、知先生が「御主人に甘える事を覚えなさい」と云われたのもよくわかりました。
 
心のどこかで実母の事を心良く想っていなかったから、この様な発作が起きたのかも知れない、など色々自分を責めたりもしました。「自分の境遇や、他人を決して恨んではいけない」と、先生から聞かされましたのに、私は実母の事も、又健康で喘息の苦しさを理解してくれず仕事の事だけしか考えていない様な主人を、不満に思ったり、時間にしばられて、思う様に外出できない事も、分かっていても反省する余地が持てないでいたのでしょう。又発作を起こし、緊急で入院もさせて頂き、「入院患者全員が正座に参加するなどの時間が有ったりして修業道場へ入院したみたい」と家族にも友人にも話しはしましたが、特に苦しかった数時間をのぞくと(退院してから思ったのですが)、その入院中の楽しく思い出されるのは、何故なんでしょう、患者の皆さん方と色々と病状や結果等、雑談をまじえての食事の時の楽しかった事。後日、院長先生が「その楽しさは昔の大家族の時代と同じだからです」とおっしゃいましたが、大勢しての食事の楽しさを始めて経験させて頂きました。今年に入ってからは、平均して体調が快く、重先生から「何か思い当たる事が有ったのかね」とのお尋ねに、「ハイ!いい事が一杯で一日がとっても楽しくなりました。新しくお友達も出来ましたし」「本当は恰好よくコーラスに入りたかったのですが誘って下さる方があって演歌の上に“ど”の字が着くカラオケ教室へ行く様に成り唄っています」正直恥ずかしかったんですが、重先生がすかさず、「それはいい。それが良かったんだ。いい恰好しいが取れたんだ。」と。そうだったのかも…知らず知らずのうちにそうなっている自分に気が付きました。職種のせいも有り、南京袋的な私は、友達からも「落ちついたわね」など云われるのがまんざらでもなく、好んで、長年かかりそれらしくなれたと悦に入っていた程ですから、息子達の助言も有って、電話も切り替えが出来る手続きもし、喘息に家族の協力が必要で有る事も理解してもらえる様になった事を、これ幸いに月三回のカラオケ教室入門をねだってみました。知先生が「あまえる事を出来るようになりなさい」とおっしゃった事は、この様な事なのだとやっとわかりました。「私には無理」って思わないでよかった。とも、思いました。
 
“呼吸法教わりしまま喘鳴の襲い来る胸いたわりて吐く”こんな暗い短歌を詠んでいた私は、何処かへすっ飛んで行った様です。1つ前向きに考え始めると何もかも前向きになれました。今は、朝6時半頃から早歩きを1時間程帰宅後、腰から下だけですが、寒中もかかさず水かぶりを続けました。今私の散歩道山崎川の辺りは、次々と花が咲き、全く歌った事のない主人に合せ40数年歌わなかった去年迄の私の大変身です。大好きな歌を口ずさみつつの散歩は幸福感で一杯!さあ今日も楽しくいそがしい1日が始まります。「声がはずんで明るくなれて良かったね」と友達も励ましてくれます。今月は小学校時代からの、仲良し3人しての高山への旅も待っています。民宿での一夜、山程おしゃべりして、63才の青春?を大いに楽しんで参ります。アレルギーも有ります。まだまだ薬とは御縁が切れませんけれど、先生方の御指導で手さぐりでさがした心の原因、明るく成る事が出来たのは自分が一番よくわかり気持ちがらくになれました。
 
「自分を好きに成りなさい」とおっしゃった重先生、まだ努力も半ばですが、そのお言葉をかみしめて生きて参ります。本当に有難うございます。「有難うございました。」と御礼申し上げられる日を目指し努力致します。